市川五郎兵衛研究
五郎兵衛新田を開拓した市川五郎兵衛って? | |
市川五郎兵衛は、今の長野県佐久市に五郎兵衛新田を開拓しました。最初から長野県に住んでいたわけではありません。
元は、上州南牧の武士でした。 これは、地元の者なら小学校で勉強して知っていると思います。 |
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どうして五郎兵衛新田を開拓したの? | |
上州南牧の土地は天領でした。市川五郎兵衛は、そこの羽沢城の城主でした。
いまも、南牧村には羽沢城址があります。 徳川家康と、小諸城主の許可を得て、原っぱに田んぼを作ることにしました。 |
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どうやって田んぼを作ったの? | |
市川五郎兵衛は、蓼科山の山麓から、全長22kmの用水を作り、原っぱを開墾して、田んぼを作りました。市川五郎兵衛が私財を投じて作った用水は、五郎兵衛用水と呼ばれています。
4年余りの年月と私財を投じて、川沿いの岩を切り開き、隧道をうがちて丘陵地帯を貫き完成させた用水です。 水源は蓼科山頂付近で、鹿曲川上流で揚水し、長さは約22km、途中数か所に掘貫(トンネル)があり、 測量技術も機械も未熟な時代では非常に困難な大工事だったと推察されます。 |
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市川五郎兵衛のルーツって? | |
上州へ移る前の市川家のことは、地元でも知る人は少ないです。市川五郎兵衛のルーツは、平安時代までさかのぼります。
市川五郎兵衛の先祖は、清和源氏源義光の七男、市川十郎です。 平安時代、市川五郎兵衛の先祖は、今の山梨県 市川荘に居を構えていました。 |
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市川家が今の山梨から群馬へ移ったきっかけ | |
市川五郎兵衛の先祖市川五郎忠光は、 太平記でも有名な新田義貞の二男新田義興方につき、今の東京都大田区の矢口渡にて、北朝の足利尊氏の子・足利基氏率いる北朝方の謀略によって討ち死にしました。 市川五郎忠の光子真重は、足利氏の治世となり朝敵となってしまい、家臣従僕を率いて上州南牧に逃れました。 上州南牧は谷間にあり、稲作には不向きな土地です。 つまり、市川五郎兵衛の先祖は落人だったのです。 |
年表めも
1332(元弘二年) 父 市川市正教光 没 @由比ガ浜 | |
1333 市川五郎忠光 生まれる | |
1355 市川真重 生まれる | |
1358(延文三年) 市川五郎忠光 没 @矢口渡 25歳 真重 3歳 | |
1511 市川真治 生まれる | |
1536 市川真貞 生まれる | |
1558 市川真貞 没 22歳 | |
1588 市川真治没 77歳 | |
1571(元亀二年) 6 月9 日 ごろべえ生まれる |
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